糖質制限の安全性に関して議論になるとき、イヌイットの肉と魚中心の食生活が取り上げられて説明されることがあります。
炭水化物を極端に制限したイヌイットの人々はみな健康体だ、などのように。
確かに、W.A.Price博士の著書「食生活と身体の退化」においても、イヌイットには虫歯が極端に少ないことや、イヌイットの強靭な体について書かれています。
私もずいぶんこの本には影響されて、恥ずかしながらイヌイット最高!ケトジェニック最高!なんて思ってた時期もあったわけですが、冷静に情報を整理してみるとそもそもイヌイットはケトジェニック(or スーパー糖質制限)なのか?イヌイットが本当に健康体であると言えるのか?などいろんな疑問が湧いてくるようになりました。
sponsored link
イヌイットの食生活
糖質制限やケトジェニックダイエットを推奨する人たちは、よく「イヌイットが健康であることこそ、糖質制限が安全であることの証拠だ」という言い方をしますが、そもそもこれは本当でしょうか?
一般的にイヌイットの食生活は、肉や魚中心で油脂を多く摂り、炭水化物を極端に制限した食生活であると認識されています。
しかし、W.A.Price博士の「食生活と身体の退化」にはイヌイットの食生活について以下のように書かれています。
自給自足にあるイヌイットの食生活に登場してくるものには、カリブー(トナカイの一種)の肉、小ねずみが集めて隠し場所に貯めている落花生、シーズン中に採集し越冬用に貯えてあるケルプ(大きな海藻類)、冷凍にして保存しているツルコケモモの実(小さくて水分を多く含む果実)、アザラシの油に漬けた果実花やスイバの草、それに大量の冷凍魚類がある。
また、岸上伸啓著「イヌイット」には、イヌイットの伝統的な珍味の一つとして、カリブーの内臓料理を紹介してます。
もうひとつは、カリブーの胃の内容物とカリブーの脂身を混ぜ合わせた食べ物である。カリブーは草食性なので、胃の内容物は半ば消化された草やコケ類である。松のようなにおいと胃液のにおいが交じり合っている。それに脂身を加えて、混ぜ合わせて食べるのだが、私にとってはにおいが強烈すぎるため、とてもおいしいとはいえないが、イヌイットにとっては美味なのである。
肉や魚中心の食生活と言われているイヌイットでも、海藻や野菜、果物を比較的多く摂っているようです。
イヌイットはケトジェニックなのか?
そもそもイヌイットはケトーシスを維持しているのでしょうか?
ケトーシスに移行(ケト適応)するためには、一般的には極端に炭水化物を減らすか、ファスティングを行う必要があります。
イヌイットの食生活は何カ月もの間植物性食品を摂らない時期があるため、多くの研究者たちはイヌイットはケトーシスを維持しているのだろうと思っていました。
しかし、1928年に行われた調査によれば、イヌイットも私達同様断食しない限りはケトーシスには入らないことが明らかになっています。[1]
つまり、イヌイットも普段はグルコースを利用してエネルギー(ATP)を得ているということ。
一方で、ファスティング中に尿から放出されるケトン体はわずかであり、著者たちは「イヌイット(エスキモー)は脂肪酸を体内で完全に酸化させる驚くべき力を持っている」とまとめています。
動物性デンプン
先に紹介したようにイヌイットたちは、肉や魚以外にも野菜や果物を口にする機会は多いようです。
そして見落としがちなのがイヌイットには獲物を捕らえるとすぐに殺して生肉を食べるという文化があること。
この肉には筋肉や内臓に保存されたグリコーゲン(動物性デンプン)が豊富に含まれており、実際はこれらによって計算に含まれない量の糖質を得ているとされています。[2]
この動画は1959年のカナダのイヌイットの生活を撮影したもの。
6:45あたりから食事の様子が始まり、捕ったばかりのアザラシの内臓をそのまま生で食べるシーンが出てきます。小さな子供達も血まみれになりながら骨をしゃぶっています。
これだけ新鮮な生の内臓だとグリコーゲンも相当含まれていることでしょう。(ちなみに私達がお店で買う肉は熟成されているのでグリコーゲンはほとんど含まれない)
イヌイット=スーパー糖質制限と考えるなら屠殺場で待ち構えるくらいでないとダメかも?笑
イヌイット特有の遺伝子変異
また最近のイヌイットの脂肪代謝に関する研究では、TBX15およびWARS2とよばれる遺伝子が他の民族の配列とは異なっていることが明らかになっています。[3]
これらは体脂肪から熱を発生させるのに役立っていると言われており、寒い環境で生きていくためにイヌイットの遺伝子が適応した可能性があると言われています。
一方で、グリーンランドに住むイヌイットの2014年の遺伝子調査によれば、脂質代謝に必要な遺伝子CPT1Aに変異があり、その活性に常にネガティブフィードバックが掛かっている状態になっているとのこと。[4]
つまり脂肪を積極的に燃焼させる遺伝子がありながら、同時に脂質代謝が亢進しすぎないような遺伝子も持っている。
こんな複雑な遺伝子変異を遂げたイヌイットの食生活を我々日本人が真似て本当に大丈夫なのかという素朴な疑問が湧いてきます。
イヌイットの寿命
イヌイットの寿命に関しては諸説ありますが、1960年に科学雑誌sciencesに報告された論文ではアラスカには60歳を超えるイヌイットはほとんどいなかったとのこと。また見た目も非常に老けていたことが記されています。[5]
糖質制限で老けるという報告は、最近、多くの議論を呼んだマウスの実験があります。[6]
2018年のカナダ政府のイヌイットの調査でも、カナダ全体の平均寿命と比較してイヌイットは約10年短かったことが明らかになっています。[7]
2008年のアラスカイヌイットの調査でも、当時のアメリカ人の平均寿命(78.3歳)に比べて、イヌイットの平均寿命は70.5歳。男性に至っては67.5歳という若さです。[8]
しかし、このようなデータを紹介すると糖質制限推進ドクターは「新生児死亡率が高いために寿命も短く計算されるのだ」という話にマルっと纏め上げがち。[9]
確かにカナダのイヌイットでは新生児死亡率が平均的なカナダ人の約3倍高く、1000人当たり12.3人であることが分かっています。[7]
じゃあ他の国の新生児死亡率と平均寿命を比較してみるとどうなるでしょう?
例えば、モロッコの新生児死亡率はカナダのイヌイットの12.3人より多い17.8人ですが、平均寿命はほぼ同じ73歳です。[10,11] つまり新生児死亡率分を差っ引けば、モロッコ人の方が長生きしているということになります。(もちろん逆のパターンもありますが)
新生児死亡率が高いにも関わらずイヌイットよりも長生きできるのなら、何もわざわざ北極近くの厳しい環境で暮らす人々の食生活を取り上げるよりもモロッコの食生活を真似た方が良いということになりませんかね?
ちなみにモロッコ人は超甘党!
頑張って糖質制限して早死にするくらいなら好きなだけ甘い物食べた方が人生は楽しそうですけど笑
まとめると、イヌイットだけが新生児死亡率のせいで平均寿命が短くなっているとは言えないのが事実。
さらに個人的な意見を加えれば、寿命云々の話以前に決して国民の栄養状態が良いとは思えないような発展途上国の新生児死亡率とイヌイットが同レベルあるいはそれ以下であるということの方が重要なデータのような気がします。(例;北朝鮮(10.7人)、ソロモン諸島(10.4人)など)
イヌイットとオメガ3
オメガ3が何かともてはやされるようになったのは、1970年代のデンマークのイヌイットの調査が切っ掛け。[12]
この研究チームは、グリーンランドのイヌイットが心臓発作のリスクが低いのは、大量のオメガ3を食事で摂取しているからだと報告しました。この報告によりオメガ3ブームが訪れることになります。
しかし最近の報告では、約40年分のデータから再調査したところイヌイットの心臓疾患の罹患率は一般的な欧米人と同程度であったとのこと。[13]
また、2000年前のイヌイットの遺骨の調査でも、骨粗鬆症とアテローム性動脈硬化症を患っていたことが確認されています。[14] 近代食が入るようになってから始まったというわけでもなさそう。
というわけで、イヌイットだけが心臓疾患に罹らないという事実は現在では完全に否定されていていて、オメガ3には心疾患を保護するような効果はないという説が最新の知見として認識されつつあります。[15]
まとめ
文献だけでは実際にイヌイットが何を食べてどんな生活をしているのかまでは分かりませんので、文献だけ読んでイヌイット最高!とかイヌイットが健康だから糖質制限は安全だ!って言っちゃうような人は、単にそう信じたいだけなんだと思いますね。
そう思う人だけがイヌイットの食生活を実践すればいいと思いますよ。
sponsored link
Reference
[1]http://www.jbc.org/content/80/2/461.full.pdf
[2]https://www.amazon.com/Principles-Issues-Nutrition-Y-Hui/dp/0534043747
[3]https://academic.oup.com/mbe/article/34/4/1021/3065792
[4]http://cteg.berkeley.edu/~nielsen/wordpress/wp-content/uploads/2015/09/Science-2015-Fumagalli-1343-7.pdf
[5]http://science.sciencemag.org/content/127/3288/16
[6]https://www.dailyshincho.jp/article/2018/04070801/?all=1&page=1
[7]https://www.itk.ca/wp-content/uploads/2018/08/Inuit-Statistical-Profile.pdf
[8]http://anthctoday.org/epicenter/healthDataArchive/factsheets/life_expectancy_statewide_7_31_13.pdf
[9]http://koujiebe.blog95.fc2.com/blog-entry-1349.html?sp
[10]https://memorva.jp/ranking/unfpa/who_whs_neonatal_mortality_rate.php
[11]https://memorva.jp/ranking/unfpa/who_whs_life_expectancy_history.php#ex_pl_2017
[12]https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/7435433
[13]https://www.onlinecjc.ca/article/S0828-282X(14)00237-2/fulltext
[14]https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23489753
[15]https://www.cochranelibrary.com/cdsr/doi/10.1002/14651858.CD003177.pub3/full
[16]https://ottawa.ctvnews.ca/polopoly_fs/1.1814937!/httpFile/file.pdf
[17]https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.0954-6820.1972.tb04782.x
[18]http://www.jbc.org/content/80/2/461
[19]https://academic.oup.com/mbe/article/34/4/1021/3065792
[20]http://pubs.aina.ucalgary.ca/arctic/Arctic40-4-300.pdf
[21]https://www.newhistorian.com/inuit-dna-changed-to-suit-harsh-arctic-environment/4873/