文献(論文・特許・書籍・ウェブサイト)の情報はどういう判断基準で読むべきか

文献(論文・特許・書籍・ウェブサイト)の情報はどういう判断基準で読むべきか

インターネットや電子書籍の台頭によって、情報リテラシーの重要性がますます高まってきているように感じます。

私もこれまで様々な本や論文に出会い、いろんな情報を取得していく中で情報リテラシーに対する考え方もずいぶん変わってきました。

その中でも最も大きなヒントを与えてくれたのは、情報そのものではなく、それぞれの文献が公表されるまでの過程にあったように思います。

食事とは直接関係ありませんが、文献と呼ばれるものについてこれからどう付き合っていけば良いのか、最近考えていることをまとめてみたいと思います。

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文献とは?

現在この地球には、文献と呼ばれるものは主に4つあります。

論文、特許、書籍、そしてウェブサイトです。それぞれ文献が公表されるまでの過程を見てみたいと思います。

 

1.論文

論文とは、研究者が自分の研究成果をまとめ、科学雑誌に投稿し、査読者の審査を経てアクセプト(accept)されて初めて掲載されます。

査読者から修正や質問がくればそれに答える必要があり、アクセプトされるまで何度もやりとりをしなければなりません。

雑誌の趣旨やレベルにそぐわない場合はリジェクト(reject)され、他の雑誌に再度投稿するか、あるいは投稿自体を諦めることになります。

科学雑誌にはレベル(信頼度)があり、一般的にはインパクトファクターという数値によって評価されます。

インパクトファクターとはその雑誌に掲載された論文が、他の論文で平均何回引用されたのかを示す数値です。引用回数が多いほどその論文には価値がある(あるいは注目されている)と判断されて、雑誌自体の評価も高まります。

世界的に最も有名なNatureやScienceといった権威ある科学雑誌では、インパクトファクターは40を超えます。つまりここに掲載されている論文は、平均して40回は他の論文で引用されているということになります。

医学や栄養学に関連があるインパクトファクターの高い雑誌には、JAMA、Lancet、CELLなどがあります。

これらの論文が紹介されるときには、「権威ある」、「有名な」、「信頼性の高い」などと言った形容詞が付くことが多いです。

私がFacebookで論文を紹介するときも、これらの雑誌の論文は医師の先生方の食いつきも違う気がします笑

しかし、インパクトファクターが低いからと言って、その雑誌に掲載されている論文がすべて読む価値がないのかというとそうとも言えません。

青色発光ダイオードの発明でノーベル賞を受賞した中村修二氏は、自身の研究成果をJournal applied physics Japan(JJAP)という当時それほどインパクトファクターの高くなかった雑誌に投稿していました。

しかし、のちにそれがノーベル賞級の発見であることが分かると中村修二氏の論文引用が増え、同時にJJAPの信頼度も高まりインパクトファクターの上昇に繋がったという例もあります。

あまりにも新奇過ぎる発見ほど、有名な雑誌の査読者には嫌がられるという傾向がないとも言えないわけです。それが嘘なのか本当なのかは読む人の情報リテラシーに委ねられます。

 

2.特許

一方、二つ目の特許について。

特許も論文と同様に、出願→審査請求→審査という流れを踏んで公開に至ります。

が、論文と異なるのは、提出先が日本の場合は特許庁のみであるというところ。日本の場合は先願主義が採用されており、先に発明した人よりも先に出した人が勝ちというルールがあります。

出願が受理されれば、1年6か月後に特許公開公報によって公開されます。しかしこの段階ではまだ特許化されているわけではなく、出願から3年以内に審査請求を出さなければ特許権は認められません。しかし、他社の特許出願を抑止するという効果のみを期待して敢えて審査請求をしない場合もあります。特許化するにはさらにお金もかかるからです。

出願した特許が審査で認められるためには、ある課題に対してこうしたら解決したというストーリーの辻褄が合っているか、どうかです。

例えば、アイスの雪見だいふくの特許の事例を見てみます。

「冬場にアイスの売り上げが落ちる」という課題に対して、冬でも食べたくなるアイスの開発を行っていたロッテが、大福の中にアイスを入れるというアイデアを思いついたところから始まります。

しかし、大福の餅は冷凍するとカチカチになってしまうため、普通の餅は使用できません。そこでロッテはカチカチにならない餅を開発し商品化しました。その手法が請求項として書かれているのが雪見だいふくの特許です。

実際のところ、ロッテが本当にその特許に書かれている方法だけでカチカチにならない餅を実現したのかどうかは分かりません。しかし「こうしたらこうなった」という中で最も守りたい部分だけを記述して、辻褄さえ合っていれば特許は受理されます。

とは言っても雪見大福では特許化までに4年かかったそうです。論文も特許も審査を乗り越えるのは大変です。

論文と特許の特徴

ここで、論文と特許について簡単にまとめてみます。

論文が公表されるまでの過程で審査されているのは、論文に書かれている内容が真実か嘘かです。

つまり論文とは真偽を問う文献であると言えます。 真実の追及に向けた調査や実験、考察が不足していれば跳ね返されます。

特に医学や生化学の世界では論文のことをエビデンス(証拠)と呼んだりしますが、まさに論文が持つ客観性を反映しているといえます。

一方、特許が公表されるまでの過程を考えると、特許は正誤判断をしていると言えます。書いてあることは矛盾がないのか。ここだけです。

特許では真実なのか嘘なのかが判断されているわけではないので、仮に嘘のデータを書いていたとしても、辻褄があって守りたいものが守られるように書かれてあれば問題ありません。論文のような客観的な真偽が問われているわけではないからです。

 

3.書籍

じゃあ書籍という文献は何を問うているのでしょうか?

論文と特許と同様に書籍が公表される過程を考えてみると、先の二つにはあって書籍にはないものがあります。

それは審査です。

出版社の審査はもちろんあります。しかしそれは商業的に価値があるのか、あるいは道徳的に問題がないのかという判断であり、中身の真偽や正誤を問うものとは異なります。

すなわち書籍というのは表現の自由という権利の元、著者が思っていること、考えていること、書きたいことを自由に公表しているという、先の二つとは異なる文献であるといえます。

言い方を変えれば、審査を経ずに世に発表された書籍という文献は、私たちコンシューマーによって初めて審査されることになります。

では私たちは本の何を審査しているのか?

私たちはじゃあ本を読んで、その内容をどう審査しているのでしょうか?

私は賛否という言葉が適当ではないかと考えています。

著者の経験や一般的に流布している知識や他の文献から、こう考えれば適応できる、私はこういう解釈をしたけどどうか?という著者の主張を審査しているのではないでしょうか。

つまり書籍というのは、著者の主観を前提とした文献だと言えます。

しかし、客観性を持っている書籍もあると思います。

一つ例を挙げるなら教科書や参考書です。

教科書はこれまでのたくさんの論文から見出した定説をまとめ上げたものであり、著者の主張がメインという文献ではないと言えます。(審査を経ているという観点から見ても、一般的な書籍とは異なることが分かります)

歴史認識の問題で教科書の内容が問われるときも、真偽であって賛否とは異なります。

書籍の参考文献から考える

例えば、論文を参考文献とした書籍はどうか?

結論から言うと、これもやはり賛否判断になると言えます。

論文がいくら真偽を問う文献であったとしても矛盾した結果はいくらでも存在します。そしてその中で著者にとって都合の良いデータだけをまとめ上げて書籍にすることも可能です。

従って、どんなに論文を参考文献として取り上げていたとしても、書籍として公表された以上は著者の考えであり、やはり賛否という判断基準で私たちは接する必要があると思います。

一方、書籍を参考文献にした書籍はどうか?

これまでの考察から、書籍というのは著者の主張に対して賛否を問うものであり、それに賛同すること自体、すでに主観となります。

主観の上にまた主観を乗せていくわけなので、書籍引用がメインの書籍は論文を根拠にした書籍よりさらに主観の強い文献であるとみなせます。

ちなみに、客観性の高い書籍が優れていて、そうでないものが劣っているという話ではありません。主観的な本にはこれまで誰も気づかなかったことを発見できるという楽しみがあります。

ただ、それを審査するときは賛否が基準であり、真偽正誤ではないという認識が必要だということです。

例えば、宗田先生の「ケトン体が人類を救う」に書かれている「胎児の臍帯血や絨毛からケトン体が高レベルで検出された」という研究結果は真偽ですが、「したがって、人類は本来脂質代謝の生き物である」という部分は賛否となります。ここを真偽(信じる信じない)で判断することは、情報リテラシーが高いとは言えないと思います。

こういう観点で書評を読んでみると

このような文献が持つ特徴を考慮したうえで、amazonなどの書評を読んでみると、違和感を感じるものとそうでないものが、判断基準によって分けられることに気づかされます。

私が最近読んだ中でともて良い書評だと感じたのは、たがしゅう先生の「うつ・パニックは鉄不足が原因だった(藤川徳美著)」の書評です。

 

藤川先生の主張のなかで賛同できる部分と賛同できない部分をきちんと分けて、それぞれについて考察しています。決して真偽や正誤によって評価しているのではないので、非常に客観的な視点で読むことできます。

なるほど、本というのはこういう視点で読むべきなんだなと改めて思わされました。

逆に「この本に書いてあることは信じられない(or 真実だ)」「嘘だから信じてはいけない」「この本の参考文献は嘘だから本に書いてあることも嘘だ」という書評はすごく違和感を感じるわけです。

なぜかというと、書籍に対して真偽判断をしているからです。

著者の考えに対し、真偽によって誰かと議論をし始めると大抵は揉めるだけで結論は出ません。

しかし賛否によって議論をすると理解が深まることもあります。

 

4.ウェブサイト

最後にウェブサイトです。

ウェブサイトには、論文もあり、特許もあり、教科書的なサイトもあり、個人の主張もあり、上に挙げたすべての文献を含んでいる、まさに玉石混交の文献だと言えます。

公表される過程は一般的には書籍と同様、審査を経ないパターンが多いですが、それだけとも限りません。

世界で最も新しいとも言えるこのような文献を私たちはどのような基準で判断するのでしょうか??

私の答えは、好き嫌いです笑

ウェブサイトが持っていて他の文献が持っていない特徴は、著者との距離感だと思います。

特にSNSの効果により、ウェブサイトに公開されている情報と著者の顔や性格などが連結されやすいのは他の文献にはない特徴だと言える気がします。

生理的に受け付けるかどうかをひっくるめて、好き嫌いが最も適当だと感じます。

それだけに「あの人が言ったから」という最も危ない判断をしてしまいがちな文献だとも言えます。

 

まとめ

文献から情報得るとき、私たちがどういう判断基準を持って接するべきなのか、そのヒントはその文献の内容自体ではなく、それが公開されるまでの過程にあるのではないかと考えています。

そのような視点でみると、論文は真偽判断、特許は正誤判断、書籍は賛否判断、ウェブサイトは好き嫌いによって判断されていると考えることができるのではないかと思います。

ついつい「信じるか信じないかは自己責任」というようなざっくりとした判断基準で全ての文献と向き合ってしまいがちですが、情報源が論文なのか、書籍なのかによって判断基準を変えていく必要があるのではないかと考えいています。

そのうえで、どの部分が賛同出来てどの部分が賛同できないのか、またそれはどうしてそう思うのか、こういう思考プロセスが情報リテラシーを高めていくものと考えています。

 

私がここに書いてきた内容についても、「正しい」「間違ってる」という判断基準ではなく、「賛同できる」「賛同できない」あるいは「好き」「嫌い」という判断で読んでいただければと思います笑

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